少し間が空いてしまいましたが、英国音楽誌「OUTLAW」創刊号でのアーマンド・セラへのインタビュー、その3です。今回は彼が故郷のフランスから英国に渡った経緯、ジュエリーデザイナーとなった運命的な出来事などが語られます。
70年代の終わり、フランスのバンドでのポップミュージックのカバーに忙殺されていたアーマンド・セラは、自身のロックミュージックへの夢を追いロンドンに渡った。ムーブメントとしてのパンクが終わりを迎えつつあった70年代末に彼はロンドンを訪れた。「あの頃はキングスロードのあたりを歩くとモヒカンの奴らを沢山見かけたね」とセラは言う。「でも、私はアイアン・メイデンやメタリカのような感じで全身黒ずくめだったよ」
セラはパブを演奏して回るようなバンドをいくつか経た後、いくつかの有名なバンドのオーディションも受けていた。(その最たるバンドがスコーピオンズで、彼はマティアス・ヤプスにその座を譲った…)
このような生活を続けながら、彼は収入の足しとなるような仕事があるかとソーホーのカーナビー・ストリートで見つけたグレートフロッグという店に立ち寄った。当時、そこにはロックと呼べるようなものやハイストリートのブランドもののようなものは何もなく、そこで売られていたのは安価なものばかりだった。しかし、それはセラにとってどうでもいいことだった。彼はジュエリーデザイナーになるつもりなどなく、単に仕事を必要としていただけだったからである。
こうしてグレートフロッグでの仕事を得たセラはブラック・サバスやレーナード・スキナードなどの曲をかけながら(客がそれらを好きかどうかなど関係なく!)カウンターの向こうで働いた。(ジュエリー製作者ではなく販売スタッフとして、ということです)
ある日、一人の男性がやってきてスカルのリングを欲しいと言った。「私は当時のオーナーにその旨を伝えたんだけど、彼は”FXXK OFFとでも言っとけ”って返事だったんだ」セラはその出来事を思い出しながら続けた「だから私はその客に言ったんだ。”OK, 僕が作っておくよ”ってね」
セラは本業ではないものの、タトゥーやTシャツ、レコードのジャケットなどを友人のためにデザインするようなアーティストであった。しかし、ジュエリーのデザインに関する経験は完全にゼロだった。「これは”そう難しいものじゃないぞ”って思ったんだ」セラは語る。
バーナーやロウ付けの使い方の簡単なレクチャーを受けると、彼はすぐさま仕事にとりかかった。数日後、スカルリングを注文した顧客が店にやってくると、セラは出来上がったスカルリングを彼に見せた。セラはその時を思い出しながら言う「あれは、それまでで一番簡単に稼いだお金だったよ。同じ額を稼ぐにはギターレッスンを10回ほど誰かにやらなくちゃならなかったからね」
棺のペンダントやミニチュアの手榴弾、その他のロックなシンボルがこの最初のスカルリングに続いた。セラは店を頭蓋骨やクロスボーンなどで飾り、ハーレーのフロント部分をショウウィンドウにディスプレイした。当時、このグレートフロッグでやっていたことは他の誰もやっておらず、噂は瞬く間に広がった。
最初期の顧客、モーターヘッドのフロントマンであるレミーは指輪を注文した。セラは当時を回想する「何度か作ってはやり直したよ。最初に作ったものは大きすぎたんだ。でも出来上がったものを彼は愛用してくれたよ。彼が亡くなる日までね」
こうしてセラはグレートフロッグに10年在籍したが、それまでの貢献に対する当時のオーナーからの報酬が充分ではないと考えた彼は、リスクを覚悟で独立することを決断した。セラは1992年1月にグレートフロッグを去ると、数週間のうちにクレイジーピッグをスタートさせた。
「すべてを自分でやりたかったんだ」セラは言う。「私は自分自身にこう言い聞かせたよ”よし、これからは今までの10倍働くぞ、もうカウンターの向こうで販売員として働くことはない、毎日8、10、いいや16時間ジュエリーを作りまくるぞ”ってね」
セラは友人やこれまでの顧客、知り合いなど300人以上に手紙を送った。こうした地道な取り組みが功を奏し、クレイジーピッグがオープンした最初の一週間で大きな利益を得た。翌月には更なる利益を手にした。セラは自身が本当にやりたかったことのための金をかなり突然に得ることとなった。彼が本当にやりたかったこと…それはギターを集めることである。
いかがでしたか?ジュエリーデザイナーとなった出来事や、独立する時の強い決意など、今や世界的に有名なスカルジュエリーの作り手として知られるようになったアーマンド・セラの様々な面が垣間見えたのではないでしょうか。
10ページにわたる長編インタビュー、あと2回ほどお付き合いください。
CRAZY PIG DESIGNS TOKYO
東京都世田谷区北沢2-30-3
TEL: 03-6407-8158
OPEN: 11:30-19:30
https://crazypigdesigns.jp
info@crazypigdesigns.jp
このような生活を続けながら、彼は収入の足しとなるような仕事があるかとソーホーのカーナビー・ストリートで見つけたグレートフロッグという店に立ち寄った。当時、そこにはロックと呼べるようなものやハイストリートのブランドもののようなものは何もなく、そこで売られていたのは安価なものばかりだった。しかし、それはセラにとってどうでもいいことだった。彼はジュエリーデザイナーになるつもりなどなく、単に仕事を必要としていただけだったからである。
こうしてグレートフロッグでの仕事を得たセラはブラック・サバスやレーナード・スキナードなどの曲をかけながら(客がそれらを好きかどうかなど関係なく!)カウンターの向こうで働いた。(ジュエリー製作者ではなく販売スタッフとして、ということです)
ある日、一人の男性がやってきてスカルのリングを欲しいと言った。「私は当時のオーナーにその旨を伝えたんだけど、彼は”FXXK OFFとでも言っとけ”って返事だったんだ」セラはその出来事を思い出しながら続けた「だから私はその客に言ったんだ。”OK, 僕が作っておくよ”ってね」
セラは本業ではないものの、タトゥーやTシャツ、レコードのジャケットなどを友人のためにデザインするようなアーティストであった。しかし、ジュエリーのデザインに関する経験は完全にゼロだった。「これは”そう難しいものじゃないぞ”って思ったんだ」セラは語る。
バーナーやロウ付けの使い方の簡単なレクチャーを受けると、彼はすぐさま仕事にとりかかった。数日後、スカルリングを注文した顧客が店にやってくると、セラは出来上がったスカルリングを彼に見せた。セラはその時を思い出しながら言う「あれは、それまでで一番簡単に稼いだお金だったよ。同じ額を稼ぐにはギターレッスンを10回ほど誰かにやらなくちゃならなかったからね」
棺のペンダントやミニチュアの手榴弾、その他のロックなシンボルがこの最初のスカルリングに続いた。セラは店を頭蓋骨やクロスボーンなどで飾り、ハーレーのフロント部分をショウウィンドウにディスプレイした。当時、このグレートフロッグでやっていたことは他の誰もやっておらず、噂は瞬く間に広がった。
最初期の顧客、モーターヘッドのフロントマンであるレミーは指輪を注文した。セラは当時を回想する「何度か作ってはやり直したよ。最初に作ったものは大きすぎたんだ。でも出来上がったものを彼は愛用してくれたよ。彼が亡くなる日までね」
こうしてセラはグレートフロッグに10年在籍したが、それまでの貢献に対する当時のオーナーからの報酬が充分ではないと考えた彼は、リスクを覚悟で独立することを決断した。セラは1992年1月にグレートフロッグを去ると、数週間のうちにクレイジーピッグをスタートさせた。
「すべてを自分でやりたかったんだ」セラは言う。「私は自分自身にこう言い聞かせたよ”よし、これからは今までの10倍働くぞ、もうカウンターの向こうで販売員として働くことはない、毎日8、10、いいや16時間ジュエリーを作りまくるぞ”ってね」
セラは友人やこれまでの顧客、知り合いなど300人以上に手紙を送った。こうした地道な取り組みが功を奏し、クレイジーピッグがオープンした最初の一週間で大きな利益を得た。翌月には更なる利益を手にした。セラは自身が本当にやりたかったことのための金をかなり突然に得ることとなった。彼が本当にやりたかったこと…それはギターを集めることである。
いかがでしたか?ジュエリーデザイナーとなった出来事や、独立する時の強い決意など、今や世界的に有名なスカルジュエリーの作り手として知られるようになったアーマンド・セラの様々な面が垣間見えたのではないでしょうか。
10ページにわたる長編インタビュー、あと2回ほどお付き合いください。
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